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#001 オシャレはダサい 

 この感覚をうまく伝えられるかどうか、あまり自信がないのですが、オシャレな人を見ると「ダサい」と感じることがあります。何を言ってるんだと思われるかもしれませんが、オシャレはダサいと矛盾しないことがあるのです。

 たとえば、電車に乗っていて、一人の若い男が入ってきます。私は一瞥して、この男がオシャレだと感じます。高い身長に羽織ったワインレッドのロングコートの中には黒いインナーと黒いスキニージーンズ。胸にはZARAで買ってきたような金縁のメガネをぶら下げていて、髪の毛もキレイに金髪に染め上げて、襟足からサイドラインをすっきりと刈り上げて見事なマッシュを作り上げています。足下に履いた厚底の黒いスリッポンは180近くはある身長を底上げしていて、全体的な存在感を足しています。何だかラッドミュージシャンという感じですね。しかしなぜか、私は言いようのない嫌らしさを感じるのです。これは実際に私が数日前に体験したことなのですが、この「ダサさ」はどこから来るのでしょうか。

 

オシャレの向かう先

 そもそも、人はなぜオシャレに気を遣うのか、またオシャレであることが良い(とされている)のはなぜか、というところから考えてみたいと思います。

 家を出る前に服を選ぶというその行為は、その人の単純な楽しみでもあるし個人的な趣味嗜好でもありますが、それと同時にオシャレはしかし他者を前提としています。すなわち人の目にどう映るのか、が問題となる訳です。冠婚葬祭などある程度服装が定型化している場合も含めて、それは非言語のコミュニケーションであり、その人の社会に対するアティチュードの提示であり、精神性の表れです。他者の目に触れ続ける限り、その人は絶えず、服装という記号によって、自分に関する情報を発信し続けます。こんな事を言うと話が大きくなりすぎだなんて思われるかもしれませんが、私のとらえ方としてはこうなります。

 したがって、適切な服装の選択、すなわちここで言うところのオシャレは、その人が非言語下に秘めている情報を100%に限りなく近く表現するものであり、そしてその成功を志すものです(これはその人の社会的な認知を高め、より良くします)。

 このような事情から、オシャレであることはつまりその人にとって少なからずメリットをもたらしてくれるものであって、人はそうなることを求めるのではないでしょうか。

 

顔がダサい

 例の男に話を戻しましょう。観察を続けているうちに私はこの男に対する不快感の正体がなんとなくですが分かってきました。最も端的な表現を用いて言ってみるならば、つまりこの男の顔がダサいのです。

 なんとも高飛車な表現で申し訳ないのですが、こう言ってしまうのがこちらとしても言葉が少なくて済みます。これは彼の顔が不細工だとか、やはり西洋人のほうが美しいのだとかそういうことではありません。私に言わせれば所謂イケメンとされる人でも、西洋人でもダサい顔というのはあります。

 なぜなら顔はその人の精神性を最も端的に表す部分であるからです。少なくとも20年は生きてくるとお分かりになるかと思いますが、全く知らない人でも顔をみればだいたいその人の主要な6割くらいは分かるような気がするものです。顔というのはそれだけの情報量を有しているものです。そしてこれは子供よりも大人、若者よりも長く生きた中年、老人により顕著です。

 そして例の男の顔はこう言っていました。「おい、見ろ、オレは服装もオシャレで身長も高く、センスも良くて女にモテる実に価値のある男だ、云々」と。私に作家のような描写力があれば顔の特徴を細微に渡って伝えたいところなのですが。

 確かに服装の組み合わせや演出の仕方にはセンスを感じるものがありました。しかし自己表現の枠を超えて着せられた服にはどこかで「ちぐはぐ」な印象を受けてしまうものです。それは承認欲求のための手段でしかありません。こんなものは裏返せば臭い匂いのする時計仕掛けのオレンジです。そして私は彼の目に反射する裏側を見てしまったのではないかと、そう思われます。

 

ファッションを捨てよ

  これはやや哲学的な話にはなるのですが、見る者に「オシャレだ」という印象を与えるようでは、本来的な意味でオシャレではないのだと思います。かっこいいとかキレイだとかいう情動・感動は、常にその対象に対する純粋な判断を損ないます。

 なぜなら他者に感動を与える服装は、元来の目的であるその人の情報に不純なものが付加され、更に隠蔽されているということだからです。こんなものがファッションなら、裸になるほうがまだマシではないでしょうか。

 ではどうすれば私たちは美しく存ることができるのでしょうか。参考までに私の至った結論を述べておきます。真に美しいのはそれぞれが持ち合わせているフィロソフィであり、精神性です。そして最大限に私たちに出来ることは、その形をよりしなやかで自然な、より崇高なものにしていくことではないでしょうか。個人のファッションはその発現としてあるべきです(ただし純粋にその可能性を追求し、人々に提案していこうとするアートとしてのファッションとは意味合いを別にします)。すなわち器を叩き広げていくことでしか私たちは美しくなれない、というのが私の伝えたいところであります。