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#008 キモチワルイキレイ(1)

 

これはとても失礼な話ですが、全く知らない人の顔を見て、キモチワルイと感じることがあります。カフェ・スタンドに座って通っては過ぎて行く人たちを一人一人眺めていると、彼らの顔に対してどこか奇妙な気持ちになります。

逆に、キレイだと感じることもあります。

そしてよく知っている(何らかの言語的コミュニケーションの経験がある)人に対してはそこまでキモチワルイとは思いません。

人に対してだけではありません。私たちはあらゆる場面においてキモチワルイとキレイの間でさまよっています。

 

私はしばらくこの違いについて考えていました。この認識の違いはどこから来るのだろうかと。いくつかの気付きがありました。整理します。

  1. まず、認識する主体である「私」があり、
  2. 認識される側である「彼」の存在があります。
  3. そして言語的な情報伝達の経験は認識に影響を与えている。
  4. これらの要素が絡み合って「キモチワルイ」「キレイ」の印象が「私」に与えられる。

 

しかしこれらのコトを正しいと定義するには、あまりにも不確実です。先述の要素に当てはめます。

  1. 主体の存在、正確な認識の可否
  2. 客体の存在、正確な情報発信の可否
  3. 情報の量が認識の根拠になっているのか
  4. 「キモチワルイ」「キレイ」の言語的な安定性

 

数回に渡って、ゆっくりと考えていきたいと思います。なぜならこれらの問題は一回きりの話で終わりそうもないからです。

そして、現段階の考えの地図の上では、「包括する全体」にまで話が広がってしまうような気がします。「包括する全体」は私の根底にある最も深淵なテーマであり、慎重にその中へ入っていかなければなりません。なぜなら、私には戻ってくるべき生活があり、肉体があるからです。そして戻ってくるには強さが求められます。したがって一気に考えを進めて行くことを避けたいのです。

 

次回から少しずつ話をはじめます。