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相談室

考え 共有 人間 社会

#005 一億総コンテンツ社会

 Twitterが2006年にサービスを開始して、日本に広く普及してから久しいですが、あなたはどれくらいTwitterを使っているでしょうか。私が始めたのはちょうど高校一年生の時期に当たる2012年。なんと5年もこのサービスを使い続けているということには驚きます。人間、始めるのは容易く、続けるのは難しいと言いますから。

 Twitterだけではありません。今や多くの人がFacebook、Instagramのアカウントをネット上に持っていることでしょう。そして私たちはその他人のアカウントの発信する情報を日々受け取っているわけです。

 そんな時間のつぶし方って、20世紀に想像し得たでしょうか?他の人の発する情報(ここで言う情報はありとあらゆる刺激、受け手が五感で享受するものすべてを含みます)で何らかの知見を得たり、楽しんだり、そういったことはあったでしょうが、おそらくその受け取る範囲は今に比べればとても狭かったはずです。

 しかし今や、ほとんどすべての人が他者にとってのコンテンツとなり得る時代です。特にそうした時代で育ってきた世代には、気づいているかどうかはともかく、他者への露出の意識があります。私たちの中にある「見られている」という意識、これは私たちにどのように影響しているのでしょうか。

 

「わたし」のコンテンツ力は

 私がとても興味を惹かれることがあります。それは、このコンテンツ社会においてはそれぞれの情報が含む価値が多くの場合において数値化されうるということです。これはしかし一つの指標に過ぎませんが、無視できるものではありません。

 Twitterに話を戻しましょう。Twitterではその人のアカウントのフォロワー数は勿論、それぞれのつぶやきにはお気に入りのハート、そしてリツイートのマークがついています。そしてこれに付随する数値、これは端的にその情報の価値を示していると言っても良いでしょう。もちろん本質的な価値がどうか、ここでは測れませんが、フォロワーの目に触れて判断された結果として、少なくとも客観的ではありあす。共感できるとか、ためになるとか、その意図は様々でしょうが、わかりやすくその値が目に触れることになります。

 すなわちTwitter上では絶えず、人によって判断されているわけです。これは、もし好意的に受け取られれば気持ちの良いことです。自分のアイデアや趣味趣向が人の目に触れた結果、それを認めてもらえる。これほどの快感はないでしょう。現実に人間関係が無くとも、あるいは生きていけるかもしれません。そんな人も中にはいるでしょう。

 ある種の価値が数値化されていること、これ自体は良いとも悪いとも思いません。しかし、これは裏を返せばまるで競争のようになりかねない側面もあります。私が見ていて心を痛めるのは、まるで観客の奴隷のようになっていて、自らを損ねている人たちです。

 

凡人はどこにいった?

 コンテンツ社会において「フツー」はあまり認められません。なんせ、希少価値がないのですからね。本当はフツーの人たちなんて昔から存在せず、はたから見れば突出した特徴が見えにくいというだけなのですが、それにしたってその人にはその人なりの性格があり、趣味趣向がある訳です。

 しかしもしこの社会で認められようと思うのであれば、自分というコンテンツの希少性、あるいは独自性を示していく必要があります。

 中でも特に精神的な苦悩を抱えていることは、ともすれば多大な共感を呼びますし、共感が呼び水となってある種のコミュニティを作ることもあります。負の感情を吐き出すことはな何より安定剤になりますし、それ自体は悪いことではありません。しかしその必要があるのか疑わしい人たちが、進んでこのような負の露呈をしようとすることがあります。これは、私からすれば、宣伝行為の手段として映ります。

 そして、自らの発した言葉は言霊となって、その人の精神を蝕んでいきます。これほど嘆かわしいことはありません。しかしそのコミュニティに安住している限りでは価値を認められています。抜け出せなくなっているのです。観客の期待に応えるため、精神を売りつづけることしかできないのでしょうか。

 

「隠れて生きよ」

 哲学者エピクロスの有名な言葉にあるように、少しだけでも、世間から離れて生きることができれば、本当に救われるのではないかという気がします。そうして、本来的な幸せに気づくことができるのではないかと思うのです。苦悩を排除することができれば、平凡な生活の中にでも至上の幸福を見いだせることができると言います。

 承認欲求を満たす快楽には、常に、少なくないリスクがつきまとっています。「見られている」という意識は、私たちを知らず知らずのうちに疲弊させています。それぞれの人格は、精神は、見せ物ではないはずです。それ自体として美しい、生命として存在しているとは思いませんか。実は、凡人こそ美しいのだということをときどき私たちは思い出すべきです。