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#004 ゲージュツがわからない

 それは確かモネの展覧会でのことでした。私は京都の美術館におもむいて、モネの絵を、それらは彼の生涯を追って並べられていました、とても良い心持ちで眺めていたのです。輝かしい光の絵画も好きなのですが、私が一番気に入ったのは最晩年の作品群でした。そこでの彼の筆はもはやモチーフの原型をとどめていないものでして、そして20世紀の抽象主義の幕開けを匂わせるものさえありました。私は長いこと作品の前に立ちつくしていました。

 しかしながら、騒々しい館内でした。なにせ休日でしたから人が多くて、そして往々にして多くの美術館に見られるように、そうです、中高年のおばさま連が多いのです。耳の注意を向けてみると、「何書いてるんやわからへん」だとか「ちょっと私にはわからないわ」といった声が聞こえてきました。

 この人達には少しばかり静かにしておいてほしいところですが、今回の論点はそこではありません、私にはある種の疑問が湧いてきました。「わからない」って、いったいどういう事なんでしょう。そしてもう一つ、「わかる」作品があるとしたらどういうものなのか、私はその日の帰り道から考えるようになりました。

 

「わからない」ことを「わかる」

 「わからない」作品の筆頭として思い浮かぶのが「2001年宇宙の旅」です。まだ観ていませんか?それならまず観てからここに来ることをおすすめしますよ。

 言わずと知れたキューブリックの68年の作品です。3部構成になっていて、最初のサルのシーンが異様に長いことを除けば、大好きな作品です。木星探査機ディスカバリー号の中での人工知能HALとのサスペンス的なやりとりは普通に観ていても楽しめます。

 しかしこの映画、ラストにかけておそらく観ている人の91%は不安な、まさしく宙ぶらりんな気持ちになるのではないでしょうか。意味の分からない光線がほとばしるエフェクトが10分も続いて、気づけばよく分からない空間に移動している。そして、「ツァラトゥストラはかく語りき」が流れて、終幕。これでは、何も解決していないじゃないかと、怒ってもいいほどです。終わったあとになってみると何もかもまったくわからないのです。私はこの作品の背後に流れているものをエンドロールの暗闇で必死に考えました。

 そこで出した結論はこうです。すなわち、これは、観客が宇宙に対峙する映画なのではないかというものです。宇宙は人類史のなかで研究が進んできたとはいえ、それはごく一部、わからないことが9割以上でしょう。そんな人知を遙かに超えた宇宙という空間でのストーリーですが、実は、私たちも同じく宇宙にいる。この理解できない作品を通して私たちは構造的に、人知の及ばない宇宙にいるということを、再確認するのではないかと、そのように思えたのです。したがって、無理解という宇宙の中を旅行しているのは鑑賞している私たち自身なのですね。無理解との対峙です。これは、あくまで私の見解ですが。

 

相対的な麻薬

 そしてこれは他の、多々ある「わからない」作品にも言えることなのではないかという気がしています。「わからない」ことは、すなわち私たちの心の中でのシナプスが繋がっていないということです。しかし作品によって刺激を受けてシナプスに電流が流れても、その正体がまるでわからない。なぜならこれは今まで意識下に現れることのなかったものであり、そしてもちろん言語化もできないからです。

 ただ、これは人によっては異常な興奮を伴います。元来ヒトは退屈に弱く、新しい刺激を貪欲に欲するものですから。「なんかよくわかんないけど、すごい!!」と言って。まさしく、「芸術は麻薬」です。

 私が考えるには、これこそが芸術の本髄であって、人類の歴史で今までに渡って芸術が絶えなかったことの理由であり、理解できないことが芸術であると言われる所以です。ですから、作品を通して理解出来ない未知のものに触れるという体験は、究極的に人間らしいことだと言えるのではないでしょうか。

 このことから逆に、理解できるというものは芸術ではないとも言えます。人間は「知りたがり」です。探求を続けた先に理解が作品に追いついてしまうと、それは芸術ではなくなってしまう。そうすると、退屈になり、より複雑なものを求めて人間は新しいものを探すか、あるいは自分で作ってしまうのだと思います。そうして芸術は相対的になっていきます。未開な人たちにとっては芸術たり得るものが、一部にとっては退屈きわまりないように、理解をはるかに超えすぎているものもまた、価値が見いだせないということが起きるのです。