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#002 キシ念慮

 おおよそ私たちはそれぞれに「死にたい」と口にします。しかし何か具体的ではっきりとした問題を抱えているのではありません。その感情はむしろ漠然として正体を掴めないものです。精神医学の定義によれば希死念慮と言います。

 対して、自殺願望は主に問題解決の手段として死を求めることを指し、ある程度は別のものとして区別されます。例えば借金がたまりにたまって首が回らなくなったとか、ひどいいじめに遭って逃げ出したいとか、そのような場合の手段として彼らは死を望むのです。

 

 さて、私が今回考えたいのは前者の方です。漠然として正体の掴めない感情、その意識下に横たわっている問題は何かということです。

 この世のすべては目に見える/見えないを別にして、何かしらの因果関係が働いていると考えます。したがって、私たちの抱えるこの「死にたい」という感情にも、何かしらの問題が隠されていると仮説を立てるところから始めます。つまり、希死念慮についてもそれはやはり問題の解決手段として捉えるということです。ただ、その問題はいささか入り組んでいるようですが。

 

生と死、陰と陽

 まず私の個人的な話になってしまうのですが、実際に死のうと思い立って京都の山へ行ったことがあります。なぜそんな状態に至ったのかについては割愛しますが、当時の私は慢性的といってもいいくらいに絶望的でした。そこで、そんなに死にたいのなら死んでみれば良いじゃないかと思ったのです。

 最低限の装備だけで山奥のひとけの無いキャンプ場で3日間過ごしました。食料と言えば水のみで、そして3日目にロープでもって命を絶つという計画でした。

 しかしこうして私が話していることからもわかるように、実際には死ぬことはありませんでした。なぜ、命を絶たなかったか、そのときは自分でも分からなかったのですが、一つ言えることは、その後徐々に生活には活気が戻ってきたということです。

 

 私の抱えていた希死念慮は徐々に姿を潜めていきました。このことから、一つの仮説が浮かんできます。それは、人間の生命は生と死が分断された単純な二項対立ではなく、その両方が入り乱れ、バランスを取り合いながら活動するエネルギーなのだというものです。そして、人間の生死、生体状態としての生死はそのバランスが崩れたときに決されるのではないか。これは陰陽五行説に近い考え方だと言えるかもしれません。

 このように考えると、私のかつての状況についても説明がつくような気がします。つまり、私の中の生命は、生きること、生へ傾きすぎていたのではないかと思うのです(すなわち端的に言うと、生を見つめすぎていました)。

 そしてそのような状態に対する要請として、死への引力が働いていたのではないか。これは明らかに問題の解決につながります。生へ傾いたエネルギーを再び死の側に呼び戻す。単純な構造ではありますが、納得はできます。

 希死念慮の正体は、一つにはこのようなものがあると言えるのではないでしょうか。

 

メメント・モリ 

 私は、むしろ、「死にたい」という感情をまったく持たない人たちにこそ深刻な問題があるのではないかという気がします。特に、若い年代においては。

 というのも、これまでの話から考えると、彼らはほとんど生に対する希求を持たずに漫然と生きているということになるからです。自分の生に対して無責任であると言えるでしょう。そして、徐々に年老いてエネルギー構造は死へと傾き、生きた死人が完成される。そんな大人に心当たりがあるのではないかと思います。

 少しばかり乱暴な言い方かもしれません。しかし「死にたい」ほど生を突き詰める人のほうに、私はどうしても生命の美しさを感じてしまいます。もしかすると、生と死を行ったり来たりしながら、生命は完成するのかもしれません。